ラッコと水族館、そして日本人
ラッコが日本の水族館で飼育されるようになったのは1982年とつい最近のことだ。伊豆三津シーパラダイスで初公開され、83年には鳥羽水族館で公開してから大ブレイクした。そのブレイクぶりは、現在の旭山動物園のアザラシ、ホッキョクグマ、ペンギンの展示を合わせた人気を凌駕するもので、当時年間80万人ほどの入館者数だった小さな水族館に、年間200万人もの来館者が押し寄せた。
この人気によって、その後10年ほどはラッコの飼育が水族館入館者の決め手とばかりに、続々と飼育が始められ、最盛期には全国で28館の水族館におよそ100頭のラッコがいた。日本の水族館で飼育されているラッコの数が、世界で飼育されるラッコの数の9割ほどを占めていたのではないかと思われる。
ヌイグルミのような顔、ふさふさの毛、ヒトのような仕草に、知恵のありそうな行動、両手をヒトのように使い、赤ちゃんをお腹の上で育てる…そのいずれもが、日本人の「愛らしい」のツボにぴったり当てはまったのだ。
日本人を熱狂させたラッコのこのパワーは、80年代に始まった第三次水族館建設ブームをも引き起こすことになる。バブルまっさかりでリゾート開発が盛んだったころ、文化的で集客力のある水族館に集客の中核施設としてもてはやされたのだ。デベロッパーは当時の水族館の集客力がラッコだけのおかげだとは思ってもいなかったのに違いない。
さらにラッコブームは動物ブームにまでエスカレートし、水族館のスターどころか動物界のスターになった。テレビでは動物番組がいくつもできて、いずれも高視聴率を稼ぎ、ラッコやコアラをはじめとする様々な動物たちがCMに登場した。エリマキトカゲやウーパールーパー(アホロートル)が登場したのもその頃である。
しかし日本人のラッコへのこの熱狂ぶりは、これが初めてのことではない。
実はラッコが水族館にやってきた1980年の当時、ラッコという言葉は死語となっていて、誰もそれが動物のことだとは知らなかった。水族館のスタッフでさえ知らなかったし、もちろん筆者も知らなかった。ところが、高齢者の中にはラッコを知っている人がいたのだ。「ああ、ラッコの襟ね」「高級な毛皮ね」と…。
ラッコはその良質な毛のせいで、最高級の毛皮として19世紀後半を代表する世界的な商品だったのだ。日本でも古くからアイヌ民族が千島列島のラッコを捕らえ、交易の品としていたのだが、欧米が大船団を組んで、ラッコやオットセイを捕獲していることを知った日本政府は、19世紀の末期、ラッコ・オットセイ猟免許規則を公布してラッコとオットセイの捕獲を奨励した。毛皮によるラッコブームである。
その後、乱獲に対する反省がなされ、ラッコは世界的に保護対象動物となった。しかしそれ以前に、北海道にもいたラッコの絶滅はもちろんのこと、千島列島のラッコも減少し、ラッコ猟はすでに困難なほどになっていた。毛皮によるラッコブームは日本近海のラッコを絶滅させてしまったのだ。
そして、ラッコの毛皮という商品が流通しなくなると同時に、人々の記憶からもラッコという動物は絶滅していった。そもそも猟師以外の人々は、ラッコを毛皮以外の姿で見たこともなかったから、記憶から消えるのも早かったのだ。
現在水族館のラッコは、2世代3世代目の繁殖が難しいのと輸入が困難になっていているため、飼育する水族館数も、飼育頭数もどんどん減少している。また最近では、かつてのラッコブームの面影も無くなって、ラッコが水族館の脇役のようになってしまった感がある。
しかし、毛皮動物でしかなかったラッコを、愛らしく興味深い動物として、再び日本人の記憶に思い出させたのは、水族館での展示があったからのことだった。これからも日本の水族館で、生きているラッコに会うことができればと願っている。
中村 元