プロローグ:わたしがわたしである瞬間
この瞬間がわたしなんだ!
水深6メートル、急激な潜水による加圧でウエットスーツが圧縮され、全身がギュッと締めつけられる。鼻孔に大量の海水が流れ込み、耳がキーンと鳴り始めた。一瞬のことなので耳抜きはしない。
ゴーグルを着けないぼやけた目で、水底が迫ってくるのを確認すると、彼女はバランスをとりながら上半身を軽く反らせた。
神経を足の裏に集中する。それまで足の裏をただただ力強く押し続けていた力が、少し弱くなり方向を変えたのが感じられた。
いい感じだ、今日もうまく伝わっている。顔から胸にかけて水圧を感じた次の瞬間、足の裏には突き上げるような力強さがよみがえり、体は斜めに上昇を始めた。
周囲がみるみる明るくなる。キーンと鳴っていた音がおさまり耳の奥がゆるむ。もうすぐ……。
頭が水面をザバッと突き破るが、その音はまだ緊張のほぐれない耳には聞こえない。
彼女はただひたすら水面からの位置の確認と、今も足の裏を突き上げる力に集中していた。
「今だ!」
彼女は軽く曲げていた膝を伸ばし、それまでためていた力を解放した。
足の裏の確かな手応えとともに、水面が離れていく。
さっき突き破ったばかりの水面の上空はるか5メートル、放物線の頂点に達したとき、頭の後ろに束ねていたスパイラルの髪が跳ね上がり、ほとばしる飛沫が、彼女の頭上にきれいな弧を描いた。
両手を大きく広げて跳ぶ彼女の目には、彼女を空高く押し上げてくれたあと、2メートルほど下を追いかけるように跳ぶオキゴンドウの背中が見える。
そして、ようやく緊張の解けた耳に、2千人の観覧者が発したどよめきと歓声が届いた。
大量の水滴とともに水面に向かって落下し、再び水中に没すると、オキゴンドウは彼女を待っていたかのようにすり寄ってきた。
彼女は水面に顔を上げながら相棒の太い首に手を回し、つるりと黒く弾力のある頭にキスをする。「これだ!この瞬間がわたしなんだ!」
トレーナー福田智己の顔から笑みがこぼれた。
福田智己28歳、日本有数の巨大水族館「横浜・八景島シーパラダイス」のショートレーナーだ。
横浜・八景島シーパラダイスの海獣ショーは、シャチで有名な千葉県の鴨川シーワールドと人気を二分する、日本で最高峰の海獣ショーとして名高い。
ショーを観覧する観客数は年間180万人を超え、福田は日本で最も多くの観客の前で演じるトレーナーの一人である。
飼育係じゃなくトレーナーになりたかった
跳躍力の高い鯨類の鼻先で押してもらうことで、水深6メートルのプール底から一気に空中5メートルに跳び上がる人間ロケットは、福田の最も好きなパフォーマンスだ。
他のどの鯨類パフォーマンスよりも華やかで、観客の歓声もひときわ高い。
もちろん、テクニックとともに体力も必要な、この演技ができるトレーナーは、女性では全国で数えるほどしかいない。
しかし福田にとってれはたいして重要なことではない。それよりもこの難しい演技を成功させるための、言葉の通じないイルカと心を通わせた一体感が、なにより彼女の心をとらえて離さないのだ。
イルカとパートナーを組む喜びこそ、彼女が幼い頃から追い求めてきた感覚なのだから。
『わたしは、水族館が特別に好きだったわけでも、飼育係になりたかったわけでもありません。ただ彼らと一緒にパフォーマンスをするショートレーナーという仕事がしたかったんです』
彼女は知っている。いくらオキゴンドウより高く舞い上がっても、観客の歓声は彼女に送られたものではない。観客は、イルカたちの能力に感動し、彼らのことをますます好きになる。動物たちの魅力を引き出す舞台が海獣ショーだ。
彼女は、主役である海獣たちの才能を引き立てるパートナーとして、ショートレーナーにあこがれ、今ついにその舞台に立っている。