プロローグ
ジュゴンを人魚と信じる人たち
人魚伝説のモデルといわれるジュゴン。人魚と聞くだけで、艶めかしいし、妖しいし、謎めいているけれど、ジュゴンを一目見て、それを人魚だと言い切ることが出来る人がいるとしたら、その人こそ怪しいと思う。
でも、そんな人たちが確かにいる。しかもジュゴンを人魚だと思うだけじゃなく、その人魚に恋までしている人たちが私の周りには存在しているのだ。言うまでもない、鳥羽水族館の飼育研究のスタッフをはじめとする、世界中のジュゴンにとりつかれた人たちである。
彼らにとって、ジュゴンは、愛らしく気品の漂う、その上実際に抱きしめることさえ出来る実在の人魚なのだ。彼らはジュゴンやマナティーの仲間を研究する学問を「人魚学」と呼びならわし、その謎に満ちた生態の解明に生涯を賭けている。
彼らの活動や研究成果を通して、ジュゴンの人魚性に近づいてみたいと思う。
私が初めてジュゴンを見たのは、20年も前(1979年)、鳥羽水族館に入社をする直前のことだった。「人魚を見たことがあるかね?」と中村幸昭館長に訊ねられた私は、「いえ、一度会ってみたいものですね」と笑いながら答えた。そのとたん館長の顔がちょっと険しくなったのを覚えている。見せてあげるからついてきなさいと連れて行かれたのが、公開間近のジュゴン飼育棟マーメイドホールだった。今考えると、水族館で働こうとしている私が、ジュゴンと人魚の関係を知らなかったことにいくぶん気分を害されたのだろう。
まだ公開されていないオスのジュゴンのプールの前に立つと、「どうやな、これが人魚伝説のモデルのジュゴン。可愛いやろ」と、館長は私に言った。
私ときたら、もう唖然としてしまっていた。もちろん、本当の人魚と会わせてくれるとは思っていなかったが、生まれて初めて見る目の前の動物に対して、私にはそれが人魚のモデルだなんて、とても信じることは出来なかった。
それは、この本をお読みのどなたでも同じことだと思うのだ。
もし、ずん胴で肉付きのいい体を、肉感的な体と表現し、小さくてときおり瞬きする目を、つぶらな瞳と称え、大きく広がりよく動く唇を、官能的でいつも濡れたような唇(確かにいつも濡れてはいるのだ)と感激することができるなら、こう書き表すことができるだろう。「そのふくよかな胸の脇についた乳首はツンと上を向き、ピンク色にほってった白い肌は、魅惑的な曲線を描いて尾ビレに続いていた。そして彼女は、大きく官能的な唇を妖しく開き、つぶらな瞳を瞬きさせながら、私をじっと見ていたのだ」と……。
しかしあいにく私は、それほど創造的な審美眼は持ちあわせていなかったから、「はあ、これがジュゴンですか。これを人魚に間違えたのだとしたら、昔の人はすごい想像力を持っていたのですね」と答えていた。
館長は、再びあきれた顔をしながらも、それは想像力ではなくロマンなのである、とおごそかに宣言された。
ロマン、なんといい響きの言葉であることか。ほどなくして私は中村幸昭館長の世界「ロマンワールド」の住民になってしまっていた。男はロマンという言葉に弱いのだ。この言葉を出されると、全ての理性は霧散し、冷静な判断はチョンマゲのごとく意味のないものに成り下がる。ロマンの言葉の一発で、ずん胴で肉付きがよく、目が小さく、大きな口のジュゴンが、肉感的で、つぶらな瞳と官能的な唇を持った人魚に変わるのだ。こんな風にして、ジュゴンを人魚と信じる人は増えていくのだろう。
中村 元