子どもの頃、河童に会った記憶がある。だから、河童のいそうな川を見かけると、ついつい河童の姿を探してしまう。そして今、水族館に出かけると、水槽の中に河童を探している自分に気づく。さてみなさんは、水族館に何を求めて訪れるのだろう。魚類研究?環境の知識?まさかね。多かれ少なかれ、みなさんも心のどこかで、生命の姿を求め、水の潤いを求めて水族館に出かけているはずだ。
ヒトは元来、水辺に遊び、森に分け入り、海に挑み、そして他の命をいただく野生生物の一員だった。だからそれを必要としなくなった今も、本能的に水辺を求め、獲物となる生命の姿を求めて、森や海に身を置きたくなる。ヒトはその本能的な欲求を満たすために水族館を訪れるのである。
人類の進化にアクア説(水生類人猿説)というのがあるのをご存知だろうか。類人猿がヒトに進化したミッシングリンクの時代、私たちの祖先はエサが豊富で敵の少ない海で進化したという説だ。アクア説によれば、ヒトが直立なのも、毛がないのも、しゃべることも、汗をかくことも、さらには女性は胸が大きく、男性だけが禿げやすいことも、すべて説明がつく。
実は私はアクア説を信じている一人だ。ミッシングリンクの説明が納得できるからだけではない。海の中で野生のイルカや、オットセイ、クジラたちに会ったとき、懐かしい相手に会ったと、お互いに感じているような気がしてならないからだ。彼らの中にも、ヒトに対して好奇心をもち、懐かしそうな顔をして近寄ってくる者が、何パーセントかの割合でいる。そんな連中に海で出会うと、「なんだ河童の奴こんなところにいたのか」とうれしくなる。
私たちが、海の音に、水族館の空間に、癒しの力を感じるのは、何億年も前に魚だった頃の祖先のDNAではなく、わずか数百万年前のアクア人だった祖先の記憶なのではないかと思うのだ。
だから、精神に乾きを覚えたら、迷わず水族館に行くことをおすすめする。海獣が好きな方は海獣と会い、クラゲに癒される方はじっくり癒され、獲物探しに飢えている方は水槽での発見や写真撮影を楽しむことだ。そうすることで、水辺で生きるヒト、そしてもしかしたらアクア人であったかもしれないヒトの、押さえきれない本能が、きっと満たされるはずだ。
"水塊"。2度目の改訂版となる本書であるが、ささやかな進化として"水塊"というキーワードにこだわった。"水塊"とは、水中という非日常世界、水の圧倒的な存在感による潤いや清涼感、その内に立体的に泳ぎ浮かぶ命の姿、それらをまとめて表すために使う筆者の造語だ。実は海洋構造の区分を表す水塊という科学用語もあるのだが、筆者の"水塊"は、水族館をプロデュースする際の最も大切なことを一言で現すために創った。
人々は、水族館でさまざまな"水塊"、すなわち水中世界を目の前にすることで、心を現実から解き放ち、日々の生活で乾ききった精神に潤いを与え、生き物たちの浮遊感に癒される。視界いっぱいに広がる青い水塊を前に、何を見るでもなくぼう然とたたずむ人のどれほど多いことか。
現代の水族館とは自然科学系博物館をはるかに超え、海から"水塊"を切り取ることによって、人々の心を癒し、未知の水中世界を見たいという欲求を、大いに満足させる仕掛けなのである。
中村 元